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晩年の米朝さんは、長時間の正座を強いられる落語は、やらなくなったが、高座への意欲は尽きなかった。話芸の生き字引として、一門会にしばしばゲスト出演した。
2009年9月12日。東京・大手町でこけら落としした日経ホールで開かれた「米朝一門会」では体調不良を押して兵庫県尼崎市の病院から飛行機で駆け付けた。
医師から外出許可を得ての一時退院で、所属事務所は、「体調を見ながらの“お試し出演”」と説明したが、弟子の南光、米左とともに「よもやま噺」のコーナーを約20分務めた。
体の痛いところを聞かれ、「困ったことに、無い」。入院生活では、「タバコは止めてます。酒は…ちょっとぐらい飲みたい」とおどけた。
だが途中、左脚をさすりながら「痛い。ホンマに」と言いだし、「さっき痛いとこないって言ったのに」と、弟子を慌てさせた。そのタイミングは、まさに古典落語の空気を変える“くすぐり”にも似て絶妙の間(ま)だった。
自身の“痔”の話題では、「噺家は痔をわずろうた人が多い。義太夫語り、浄瑠璃の太夫も多いねん。お腹に力を入れて、うわっと語るからや」と話し、「私はなったことないんですが」という南光に、すかさず「(だから)芸が、もひとつや」と、大師匠らしいツッコミで笑わせる余裕も見せた。
この当時で83歳。「人間国宝」に不測の事態があれば大ニュースとあって米朝さんを担当する大阪の“番記者”も公演のたびに帯同していた。1日でも長く、生き字引の“よもやま噺”が聞きたかったが、闘病の末、静かに旅立った。
天上では、先立った愛弟子の枝雀、吉朝との高座がにぎやかになるのだろう。 (中本裕己)