モンクレール tシャツ コピーモンクレール tシャツ 新作モンクレール tシャツ 長袖 忍者ブログ

コスプレ ハロウィン 天使/エンジェル 口コミ

「太閤さんの大坂城」 石垣に宿るロマン

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

「太閤さんの大坂城」 石垣に宿るロマン

 「太閤さんの大坂城」 石垣に宿るロマン

 

  • ポーズを決めるひこにゃん(8日、滋賀県彦根市の彦根城で)=笹井利恵子撮影
  •  

      両手をパタパタさせ、静かにポーズを決める。何ともゆる~い動作に客席がどっと沸いた。

      今月8日、彦根城(滋賀県彦根市)の表門前。約300人の観衆に愛嬌(あいきょう)をふりまいたのは、城のキャラクター、ひこにゃんだ。9年前にデビューして大ブレイクした「ゆるキャラ」の元祖。衰え知らずの人気が後押しし、年平均の入城者数はデビュー以前の1・5倍を維持する。

      家族3人で訪れた岐阜市の男性会社員(34)は、「子供連れで来やすくなり、城の楽しみ方が変わった」と声を弾ませた。

      「お城ブーム」が続いている。全国城郭管理者協議会(事務局=沖縄・首里城)によると、加盟49城郭の入城者数は2013年度、1832万人で過去最高を更新した。

      今月27日には天守の修復を終えた世界遺産・姫路城がグランドオープンし、名古屋城では本丸御殿の復元工事が続くなど、今後も話題には事欠かない。お笑いタレント「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳さん、落語家の春風亭昇太さんら、自身のブログなどで「城好き」を公言する芸能人も珍しくなくなった。

      2年前から城をテーマにトークや城歩きのイベントを東京、大阪で開いてきた「城郭ライター」の萩原さちこさん(38)は、ファン層の拡大を実感する一人だ。「歴女(歴史好きの女性)やプチ旅行の広がりとともに、城のイメージが変わりつつある。建築美、土地の歴史、城下町の食と、テーマパークのように楽しめるお城はもう、『オジサンの聖地』じゃない」

    • 高層ビルに囲まれた大阪城。地下に眠る石垣には、天下統一を果たした秀吉の夢が息づく(15日、本社ヘリから)=河村道浩撮影

               

        ◇安土城念頭に

            

        各地で観光客を集める近世城郭の「定型モデル」は、豊臣秀吉の大坂城とされる。

        「大さか(大坂)をうけとり候て(中略)五十ねん(年)もくにくに(国々)しつ(鎮)まり候ようニ申つけ候」。本能寺の変で主君の織田信長を失った翌年(1583年)、秀吉は盟友・前田利家の娘に宛てた書簡で、大坂城を拠点に天下統一を果たす決意を示し、築城を開始した。

        念頭には信長の安土城があった。大型で華美な天守と高い石垣を備えた安土城は、城の役割を「戦時の砦」から「権力のシンボルタワー」へと変容させた。山城だった安土に対し、平地に造られた大坂城は、その色彩をより強めたと言われる。

        織田・豊臣期の城郭に詳しい滋賀県立大教授の中井均さん(59)が秀吉の意図を読み解くカギとして挙げるのは、安土城、大坂城の両方で使われた金箔(きんぱく)瓦だ。

        秀吉政権下で造られ、金箔瓦が見つかった城は全国20か所以上。豊臣一族とそれに準じる有力武将の城に加え、関東を支配した徳川家康の領地周辺、朝鮮出兵時に通過する街道沿いの城にも使われた。黄金の城は権力を民衆に誇示し、仮想敵を威嚇し、兵士を鼓舞する役割をも担ったのだという。

        中井さんは「いわば秀吉政権の直営店、フランチャイズ店の目印が金箔瓦。秀吉は大坂城をモデルに天守と石垣を備えた定型の城を各地に造らせ、政権の地域拠点にしていった」とみる。

        やがて金箔使用はなくなるものの、城を政治と軍事の拠点と位置づけ、建築と破却を統制する手法は、江戸幕府が「一国一城令」で踏襲。城下町は現代の都市へとつながっていく。

       

                

        ◇天下統一の拠点

            

        <太閤が築いた城か 地下10メートルにナゾの石垣>

            

        徳川政権が地下深くに埋め隠した石垣の存在を、読売新聞が初めて報じたのは1959年5月。徳川の大坂城も現天守閣も「土台は太閤さんの城」という、当時の常識を覆す発見だった。

        3年後に学芸員として採用された元大阪城天守閣館長の渡辺武(たける)さん(77)(兵庫県西宮市)は付近のボーリング調査を繰り返し、「秀吉時代の石垣」だと確信した。だが、太閤びいきの大阪人は長い間、今の石垣が徳川時代のものと認めたがらなかったという。だからこそ、目に見える形で後世に伝え残すことが「長年の念願だった」とも語る。

        その結実が、大坂の陣400年に合わせてスタートした石垣発掘・公開プロジェクト。15年度も秀吉大坂城の全容を探る調査を続け、将来的には地下に眠る石垣の常設展示施設を整備する計画だ。

        自らの生涯を露に例え、「なにわの事も ゆめの又ゆめ」と詠んだ秀吉にとって大阪は天下統一の拠点。成功と栄華の象徴だった大坂城には歴史のロマンが宿る。

        時代とありようは変わっても、城の存在は日本人の心にしっかりと息づいてきた。「秀吉時代の石垣」が長い眠りを覚ます時もきっと、新たな夢を見せてくれるに違いない。

       (稲垣収一)

            

        ◇屏風画で知る威容

            

        秀吉が造った大坂城の威容は、現存する5点の屏風(びょうぶ)画からうかがい知ることができる。

        制作時期から実像に近い姿を描いたと考えられるのが、大阪城天守閣所蔵の「大坂城図屏風」と「大坂夏の陣図屏風」。黒塗りの天守外壁には黒漆、壁や瓦には金箔が使われたとみられる。

        ただ、「夏の陣図」で天守外壁に描かれた虎やサギは現在の天守閣建設時にモデルとされたが、制作年代の古い「大坂城図」には見られない。天守が損傷したと伝わる1596年の伏見地震の後、改修されて加わった可能性もある。

        残る3点は後年の作か、着色されていない下絵で、細部に違いが見られるが、最上階に展望用の回廊を備えた5層の建物という点では共通している。

           

           

        「なにわの夢」は今回で終わります。

PR

コメント

プロフィール

HN:
No Name Ninja
性別:
非公開

カテゴリー

P R