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北海道日本ハムファイターズでプロのキャリアをスタートさせた大谷翔平は、1年目(’13年)に投手で3勝、打者で3本塁打を記録。2年目を迎えた昨年は投打の軸としてチームの柱に成長した。投げては11勝(チームの勝ち頭)、打席では10本塁打という金字塔を打ち立てた。シーズン開幕に合わせてフォトブック『大谷翔平 二刀流』も発売される本人は“3年目の進化”を冷静に見る。
――プロ2年目にして日本球界初の11勝、10本塁打。近代野球史では「野球の神様」と言われた(※)ベーブ・ルース氏(当時レッドソックス)が、’18年に13勝、11本塁打を記録して以来の大記録を達成されました。率直に、手応えは感じましたか?
大谷:はい。1年目より確実に手応えを感じるシーズンでした。投手としても野手としても、出場機会も増えましたし、成績面で言えば良かったなと思っています。
(※)ベーブ・ルース氏
1895年生まれのアメリカのプロ野球選手。アメリカにおいて数多いスポーツのひとつにすぎなかった野球を屈指の人気スポーツにした本人で「野球の神様」と呼ばれる。投打に活躍し、プロ5年目の1918年のシーズンに13勝7敗、11本塁打の記録を残した
――プロ1年目と2年目を比較したとき、最も大きな違いはどこに感じましたか?
大谷:一番大きかったのは「技術的な進歩」だと思います。あとは全体の流れを掴めたこと。1年間やってみて、(ペナントレースは)どのくらいの長さを戦って、どのくらいのペースでやればシーズンを乗り切れるか、というのを理解しながら体感できたのも大きかったです。
――二刀流の練習は、プロ入り当初からずっと貫いていますが、どのあたりでペースが掴めてきましたか?
大谷:んー……。まだ、ベストにはたどり着いていないと思いますけど、(理想のペースに)たどり着きつつはあるかなと。振り返ると1年目は探りつつ終わって、2年目はそれが少し確立しながらシーズンが終わった、というのが率直な感想です。練習に関しては、先発登板日から逆算して、今日は何をどれくらい、というのは大体決まっているので、気持ちの準備ができてから練習に入りやすいですね。練習を含めてある程度プランとして見えているので、それを時間通りにこなしていく感じです。
――(※)昨年夏にインタビューしたとき、印象に残った返答がありました。高校時代は誰もが投手と打者をやっている。だからプロに入っても当然と思ってやっている。投手と打者をやったからといって、とくに疲れることもないと。今も持ってる感覚ですか?
大谷:持っている感覚というより、それ(二刀流)しかやったことがない、僕はそれしか知らないんです。投手か野手か、どちらか一つに専念したことがない。投手に専念したから楽とか、打者に専念したから楽っていうことはないと思っています。
(※)昨年夏にインタビュー
SPA!’14年9月2日号において3ページにわたるインタビューを掲載。高校時代の話から、プロ入りして苦手な投手、驚いた打者まで、大いに語った
――高校時代、ドラフトで指名される前に「メジャー行き」を表明されていました。それがファイターズに指名され、球団から打診された二刀流。結果的にそれを受け入れた(※)当時の決断を今、どう振り返りますか?
大谷:二刀流をやってみて良かったなって思ってはいます。あれだけのメディアの人たちが来て、ファンの人に来てもらって、もしこれで活躍できなかったらどうなるんだろうって怖かったこともありました。でも、シーズンに入ってしまえばそんな不安はなくなりましたし、何より自分がやっていて面白かったんです。確かに迷いもありましたけど、いい決断でしたね。
(※)当時の決断
ドラフト指名前、アメリカ行きを表明していた大谷を「強行指名」した球団は『大谷翔平君 夢への道しるべ』という30ページに及ぶ資料を大谷側に示すなどして、二刀流の可能性を説き、翻意させたとされる
【大谷翔平】
94年、岩手県生まれ。’12年、花巻東高からドラフト1 位で北海道日本ハムファイターズに入団。1 年目からプロ野球界では珍しい投手と野手を兼任する「二刀流」選手として注目を集める。193㎝、95㎏、右投げ左打ち。開幕直前の3月24日に大谷翔平の魅力と記録、可能性に迫ったフォトブック『大谷翔平 二刀流』が発売される
※このインタビューは週刊SPA!3月24・31日合併号のインタビュー連載「エッジな人々」から一部抜粋したものです
取材・文/小島克典(スポーツカルチャーラボ)撮影/中條未来(SCOPE) ホリバトシタカ 渡辺秀之