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きょう3月10日は東京大空襲から70年、東京都復興記念館で戦災を学ぶ

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きょう3月10日は東京大空襲から70年、東京都復興記念館で戦災を学ぶ

 きょう3月10日は東京大空襲から70年、東京都復興記念館で戦災を学ぶ

 

 東京都復興記念館の東京空襲に関する展示

  10万人を超える市民が犠牲になったと言われる東京大空襲から10日で70年を迎えた。新聞やテレビで連日報道され、新事実も発掘される。しかし、「東京大空襲がどういうものだったのか?」という基礎も全体像も知らずにそうしたニュースに接している自分がいることに気づく。東京大空襲の資料を展示する東京都立横網町公園の資料館を訪れた。

 東京都立横網町公園の「東京都復興記念館」

  東京都墨田区にある総武線JR両国駅を下車すると、南に歩いて3分の場所に「回向院(えこういん)」がある。ここに来ると東京が過去に何度も大きな災いを受け、大きな犠牲者を出してきたことを思い起こさせてくれる。振袖火事として知られ、10万人の犠牲者を出したとされる「明暦の大火」(1657年)の無縁仏を葬ったのが回向院の始まり。死者10万人を出した1923年の関東大震災、東京大空襲による犠牲者も供養されている。
 
  考えてみると、関東大震災からわずか20年ほどしか経っていないのに、東京は大空襲にさらされている。震災を生き抜いたのに、空襲で命を失った人も少なくなかっただろう。人口が集中しているだけに、被害は大きい。この江戸・東京において、災害や戦争が原因で、どれだけの人が一度に多くの命を落としたのか? まったく想像の範囲を超えている。

 死亡時刻で止まった時計。焼死時と思われる時刻で止まっている

  回向院から北へ15分ほど歩くと、東京都立横網(よこあみ)町公園の「東京都復興記念館」に着く。ここはもともと、関東大震災の惨状と東京を復興させた事業を記念して1931年に開館した。後に焼け野原となった東京の戦災資料を展示し、いまに至る。1階が関東大震災、2階が同震災と東京空襲の展示になっており、1944年から終戦までのパネル写真や図表を中心とした資料を展示している。
 
  目についたのが茶色に変色した時計だ。「死亡時刻で止まった時計」とある。「身元確認のしようもなく、時計だけが残された。(中略)焼死時と思われる時刻で止まっている」と書かれていた。ほかにも焼夷弾や鉄かぶと、防空壕で焼けた日本刀などが展示されている。パネルを読み進む。
 
  1944年にマリアナ諸島が陥落して以降、東京は100回を超える空襲を受けた。初めて死者が出たのは同年11月24日の空襲で、死者は224人。1945年に入って米軍の爆撃は激しくなる。1月27日には、銀座や有楽町などが爆撃され、539人が死んだ。東京を襲った空襲のなかでも最も被害が大きかったのが3月10日の東京大空襲で、一晩で8万3793人が犠牲になった(数値は資料館の展示による)。

 戦災で消失した範囲を示す東京の地図

  「東京空襲一覧」というパネルによると、東京空襲のなかでも3月10日の次に犠牲者の規模の大きかったのが5月25日の3242人だ。4月13〜14日の2459人、4月15日の841人、5月24日の762人と続く。いかにこの日の規模が大きかったかが分かる。無差別に攻撃され、市民の命を奪った。だからこの日を「東京『大』空襲の日」として語り継ぐ。東京への爆撃は、8月15日の終戦の日まで続いているのであって、東京への空襲は、3月10日だけに行われたのではない。
 
  「東京大空襲」の3月10日未明、東京下町地区に米軍の爆撃機「B29」が300機以上襲来した。空襲は2時間あまりにわたって続いた。隅田川と荒川に挟まれたデルタ地帯はほぼ全滅。隅田川の対岸西側も広く消失した。東京への空襲では、1万発以上の爆弾と38万発以上の焼夷弾が投下されたが、うち東京大空襲では、32万3722発が投下されたとされる。
 
  B29が投下したうち最も多く使われたのは「M69収束焼夷弾」で、38本の焼夷弾が束ねられていた。ガソリンに粘度を持たせたゼリー状にし、木造家屋の壁や人にへばりついて被害を拡大させた。日本の木造家屋を焼き払うことを目的に開発され、米軍はわざわざユタ州の砂漠に長屋を作って実験したと言われる。

 焼夷弾

  空襲を受けたのは東京だけではない。200以上の都市が被災した。民間の犠牲者数は50万人以上にのぼる。展示は「戦災復興計画」というパネルで終わる。関東大震災の復興計画を拡充し、道路幅を広げ、広場や緑地帯を配置、山手線内側を区画整理するというプランが紹介される。
 
  しかし、財政やGHQ統制などの事情があり、進まなかった。河川は灰じんで埋め立てられ、延焼を防ぐ「防空大緑地」は60%を失う。パネルは「東京の街づくりにとっては厳しいものとなりました」と結んでいる。
  
  多くの犠牲の上に成立しているこの東京は戦後、戦災はともかく、災害に強い街に生まれ変わったのだろうか? 東日本大震災では、大きな火災はなかったが、交通網や電力網も麻痺したことは記憶に新しい。このことは、また明日11日、4年目を迎える東日本大震災をきっかけに考えてみれば良いのかもしれない。空襲だけでなく、震災を考えるうえでも「東京都復興記念館」は一度足を運ぶ価値がある。
 
  東京大空襲は10日がその日だったが、東京空襲の70年はまだ終わっていない。ほかにも「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区北砂)などを訪れてみてはどうだろう? 同センターには爆弾や焼夷弾の破片、米軍がばら撒いた空襲を警告するビラなどが展示されているほか、特別展「東京空襲写真展」が4月12日まで開かれている。
 
  ネットでも情報収集はできるが、実際に展示物を見ることで、その時代の空気が感じられ、考える時間が生まれていることに気づくに違いない。

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