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2011年3月11日の津波で、児童と教職員84人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市大川小学校。悲しみのなか、「校舎を保存して」と訴える卒業生がいる。幼い命を守れなかった大人たちに何を突きつけているのか。遺族取材を続けるジャーナリスト・池上正樹氏が報告する。
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2月のある日、大川小の校庭裏手にある竹藪の山を、じっと見上げる一人の男性がいた。児童74人が死亡・行方不明となった大川小の遺族で、当時3年生だった未捺ちゃんを亡くした只野英昭さん(43)だ。地震発生から津波到達まで約50分あった。児童たちは教師とともに新北上川の堤防上にある“三角地帯”を目指して避難途中、津波にのまれたとされる。校舎は新北上川沿いで標高わずか1メートル。なぜそんな低い土地で、子どもたちの命を預かる教職員たちは待機し続けたのか。なぜ1メートルも上に誘導しなかったのか。
あの日、学校にいて生還できたのは児童4人と教務主任だったA教諭しかいない。未捺ちゃんの兄で当時5年生だった哲也君(15)は津波にのまれた後に山へ押し上げられ、クラスメートに助け出された。1年生女児は山に避難した住民に救助された。もう一人の生存者である3年生男児は、A教諭とともに山にいたといわれる。
そのA教諭は一体どこから山に登ったのか。多くの子どもたちが追いつめられた同じ袋小路にいたのかも含め、謎に包まれている。11年4月以降、一度も公の場に姿を見せていないからだ。只野さんは時折現場に足を運んでは「A教諭はこの竹藪付近から法面を登っていったのではないか」と山を見上げて考える。
そんななか、当時の様子をたった一人、実名で語り続けている元児童がいる。只野さんの息子の哲也君だ。「母校を残してほしい」と訴えている。いま中学3年生。先日、高校を受験して無事合格した。
「最近、家に帰るとふとした拍子に、母親や妹が亡くなったことを実感してきて、寂しいと思ったりします」
年々話す内容が大人びてきた。力を込めて語るのは校舎を残したい理由だ。
「友達がいた。記憶が薄れていくなかで、校舎がなくなってただの更地になったら、思い出せることも思い出せなくなる。校舎があるからこそ、この廊下で怒られたなとか、この階段で転んだな、と思う。みんなが生きてきた証しがないと、だんだん忘れられて、本当の意味で死んじゃうんじゃないか」
一方、校舎を見ると悲しむ人たちの存在を気遣う。…