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現役ボクサー時代は「浪速のロッキー」と呼ばれていた赤井英和さん。俳優やバラエティー番組で活躍する一方、近畿大学ボクシング部でも指導している。作家・林真理子さんとの対談で、プロボクサーになったきっかけや、俳優に転向するまでのピンチの時代について語った。
* * *
林:モスクワのオリンピックも出場が決まってたんでしょう?
赤井:いや、岸記念体育会館というところで最終選考会があって、この試合に勝ったほうが(オリンピックに)行けるということだったんですけど、棄権したんです、私。
林:日本がオリンピックに参加しないことがわかったからですか。
赤井:はい。もう夢がないと思って、すぐにプロテスト受けて、80年にプロになりました。
林:柔道の山下(泰裕)選手が涙ながらに「何とか出させてほしい」って記者会見か何かで訴えたのを覚えてますけど、その挫折感がすごく大きかったわけですね。
赤井:はい。
林:あのときオリンピックに出ていたら、その後の人生、ちょっと変わっていたと思います?
赤井:また違う人生になってたでしょうね。でも、ピンチだと思ったことも、あとから考えるとチャンスだったりするもんだと思うんです。僕、プロになってから21試合目、ちょうど30年前の2月5日の試合中に倒されて、脳挫傷、硬膜下血腫になったんです。
林:あちら側に行ってもおかしくないぐらいの事故だったんですよね。
赤井:両親は「あきらめてくれ」と言われてたみたいですね。
林:後遺症が残る可能性も……。
赤井:もともとあんま賢うないんで、後遺症が残ってもわかりにくいと(笑)。その試合のせいでもうボクシングができなくなって、最悪やな、ピンチやなと思ってたんです。でも、いま考えてみると、あの事故があったからこそ、「どついたるねん」という映画ができて、こうやって俳優をやってられるんですね。
林:なるほど。
赤井:だから若い学生たちには、「いま、おまえたちがピンチやとか最悪やと思うとることは、実は年月がたって俯瞰してみると、また違うかもしれんぞ。それを変えていくのもおまえたちやぞ」と伝えたりしてるんです。
林:でも、事故の直後はショックだったでしょう。
赤井:3月31日に退院したんですが、それから酒ばっかり飲んでました。秋になって大学から「コーチに来てくれ」と声をかけていただいたときはありがたかったですね。選手の気持ちも指導者の気持ちもわかる立場にいましたんで、道場で学生たちと汗かいてる1時間、2時間はほんと充実してました。…