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福島第一原発事故で全町避難が続く福島県双葉町。
約60キロ南の同県いわき市で昨春再開した町立双葉中では、ただ1人の3年生高野祐一郎君(15)が13日、卒業する。
同町で生まれ育った高野君は事故後、家族と県内を転々とし、翌2012年にいわき市に移った。「被災者として特別視されたくない」と、震災には触れないようにした。知らない生徒ばかりの学校になじめず、休んだ時期もある。昨年4月に双葉中に移り、最上級生として生徒会などを引っ張り、少しずつ気持ちが変化した。
10月、1~3年の全生徒8人が友好町の京都府京丹波町で開かれた交流会に参加。高野君は町立和知中の生徒80人を前に、震災の体験を記した作文を初めて読み上げた。
当時、双葉南小5年生。教室から校庭に逃げると、長さ10メートルの地割れができていた。家族は無事なのか。夜9時過ぎ、恐ろしくて泣き出したところ、母が迎えにきて「生きててよかった」と抱き締めてくれた。避難所で家族全員と再会できたが、やがて大型テレビに煙を上げる原発が映った。父と母が「もう帰れない」とつぶやいた――。
交流会の会場は静まり返った。和知中の中村忠孝校長(55)は「同年代の話だからこそ生徒の心に染みた」と語る。
「震災で失ったものは大きい。でも体験を無駄にせず、ありのままを伝えて生かしたいと思った。少し前向きになれたのかもしれない」と高野君。12日に双葉中で配られる卒業文集では交流会を振り返り、<いつまでもあの震災があったことは忘れないでいてほしい、という気持ちでした〉と書いた。
事故の収束は見通せず、双葉町の子どもの大半が避難先の自治体の学校に通う。そんな中、双葉中は双葉北小、双葉南小とともに銀行出張所を改装した仮校舎で再開し、8月に新しい校舎に移った。体育館もできた。
高野君は「数え切れないほどの人のおかげで当たり前のように学校に通える。与えられた条件で力を尽くす」と誓い、いわき市内の高校への進学を予定する。担任の松本涼一教諭(40)は「1年で大きく成長した。その自信をもとに、今後も壁を乗り越えてほしい」と応援する。
文集の最後には、高野君の将来の夢がつづられている。
<自分が夢中になれて、人の役に立てるような仕事に就きたい。様々なことにチャレンジし、いろんなことを学び、それを仕事にいかしたい>
双葉町 人口約6300人。東日本大震災での死者・行方不明者(関連死含む)は149人。仮の町役場がいわき市にあり、県内9か所の仮設住宅で約700人が暮らす。町民は県内のほか、39都道府県に避難している。
(この連載は広中正則、名倉透浩、桜木剛志が担当しました)
〈お父さんはなるべく早く地元に帰るって言うし。(お母さんは)帰りたいけど、もう住みたくないって。わけわかんない〉〈みんなも、つらいんだよ、先が見えないから〉
2月下旬、福島県会津美里町の県立大沼高校で、演劇部の生徒が東日本大震災をテーマにした創作劇「パラダイス」の稽古をした。福島第一原発事故による避難生活に不満を募らせる中学生に、津波で家族を失った主人公の女性ボランティアが語りかけるシーンだ。
会津地方は原発事故で周辺の住民の避難先となり、同校にも当時、十数人が転入した。演劇部には3人が入部。翌年、その一人で、現在は大学2年生の坂本幸(みゆき)さん(20)らと、顧問の佐藤雅通教諭(48)が、被災者を描いた創作劇の脚本を書いた。「パラダイス」はその続編にあたる。
現部員は全員、被災の経験がない。主人公を演じる2年生の大崎理咲(りさ)さん(17)は当初、「被災していないのに、被災者を演じていいのか」と悩んだ。
昨年夏、被災者の気持ちを知ろうと、他の部員たちと一緒に会津若松市の仮設住宅を訪ねた。大熊町出身の女性は笑顔を見せながらもあきらめたような表情で、「帰りたいけど、住みたくない」と話した。
「故郷に戻りたくても戻れない現実がある。震災は終わっていないことを、福島から多くの人に伝えないと」。部員たちで話し合い、稽古を重ねた。
11月、同校で劇を見た坂本さんから、厳しい指摘があった。「セリフを言うだけ、動くだけになってる。気持ちが伝わってこない」
坂本さんは震災前、富岡町で祖母と両親、弟の5人で暮らしていた。家族は無事だったが、原発事故で愛知県まで避難した。2か月後、会津地方に落ち着いた。
「すぐに戻れると思って避難したので、気持ちの整理ができず、つらかった。忘れずにいてくれるのは、被災者にとって救いになる」。それだけに、より感情を込めた劇にしてほしいと願う。先輩からの期待を背に、部員たちは「被災者の気持ちに寄り添うことを忘れない」と心に刻んだ。
「パラダイス」で終盤、主人公が〈立場とか境遇が違っても、人は人の気持ちをわかろうとすることはできる〉と力を込めるシーンがある。大崎さんは「被災者の気持ちを完璧には理解できなくても、理解しようと努力することが大切」と思いながら演じている。
会津美里町 人口約2万1000人。福島第一原発からは約100キロ離れている。町内には、原発事故で全町避難になった楢葉町の仮設住宅があり、今も約190人が暮らす。
筆記具などの輸入・販売業「DKSHジャパン」は、ドイツのメーカー「ラミー」の筆記具シリーズ「ラミーアクセントAL」の発売を始めた。
万年筆やボールペン、シャープペンなどがあり、いずれも握る部分が膨らんでいて握りやすく、長時間書いても疲れない。ボールペン=写真=は1万円(税抜き)。問い合わせはDKSHジャパン(03・5441・4515)へ。
「風船爆弾はどんな兵器だったのでしょうか?」
中央大学(東京都八王子市)の学生取材班4人が2月下旬、旧日本軍の研究施設跡にある「明治大学平和教育登戸研究所資料館」(川崎市多摩区)で、館長にインタビューしていた。
学生たちは中大の学部横断型授業※「ファカルティリンケージ・プログラム(FLP)」のジャーナリズム部門の受講生だ。同部門には2~4年生の約170人が所属し、東京都内などのケーブルテレビ19局で放送される番組「多摩探検隊」用に毎月、10分間のドキュメンタリー番組を制作している。「多摩地域に埋もれた話題、人物、物語を掘り起こす」をキャッチフレーズに、企画から取材、編集まで番組作りのすべてを受講生が3、4人ずつのグループに分かれて担う。
この日の取材は、今年夏の戦後70年企画として、第2次大戦中に日本軍が開発した「風船爆弾」がテーマ。ディレクターで商学部2年の広瀬愛奈恵(まなえ)さん(20)は、祖母の昔話をきっかけに戦争のことを考えるようになり、昨年3月から、風船爆弾製造にかかわった元女学校生徒ら約50人に話を聞いてきた。「取材に協力してくれた方々も楽しみにしてくれている。いい番組にしたい」と話す。
◇
「取材は、学生が自分から課題解決に取り組んで学ぶアクティブ・ラーニングになり、総合的な人間力を育成できる」。FLPジャーナリズム部門で指導にあたる松野良一・総合政策学部長(58)は言う。自身もTBSの報道番組ディレクターなどの経歴がある。
経済学部2年の松原美也さん(20)は「多摩探検隊」向けに、多摩川の生態系を守っている市民団体を取材するため、河川敷の清掃活動にも参加して信頼関係を築いた。「取材を通じて、相手が何を考えているか、どうすれば心を開いてくれるかを考えられるのは貴重な体験だった」と語る。
番組の企画書をつくるためには、発想力や文章力が必要だ。取材交渉でコミュニケーション力も養える。撮影は班で行うので協調性も身に付く。
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FLPはジャーナリズム部門のほかにも、国際機関やNGO(民間活動団体)への就職を目指す学生に人気の「国際協力」や、地方自治体が抱える課題解決に取り組む「地域・公共マネジメント」など4部門があり、1年生の秋に志望動機書や面接で選考する。所属学部の授業やゼミと並行して取り組まなければならないため、学生の負担は重いが、FLPの人気部門では志願倍率が2倍に達する。「FLPがあるから」と中大に進学してきた学生も少なくない。
松野学部長は「縦割りな学部を超えた実践的な学習の機会を学生に与えることができる。今後も学生の高い意欲に応えていきたい」と話している。(伊藤史彦)
※学部横断型授業 専門分野の枠を超えた学習を可能とするため、各学部が連携して実施する教育プログラム。中央大の場合、全6学部の教員約50人が、所属学部の授業に加え、学部横断型授業の指導にあたり、2~4年生計約700人が履修している。
1885年に設立された英吉利(いぎりす)法律学校が前身。東京都八王子市や文京区などに6学部11研究科があり、大学院生を含めた学生数は約2万7000人。
太平洋沿岸の高台にある岩手県山田町立船越小学校。
2月17日の昼休み、相談室に遊びにきた児童らが、スクールカウンセラーの宮下啓子さん(54)に「怖かった」「サイレンの音が嫌だった」などと口々に言った。
その日の午前8時過ぎ、三陸沖を震源とする地震が発生し、震度3を記録した山田町の沿岸部には7か月ぶりに津波注意報が出された。発生直後、全校集会で体育館にいた児童約130人の中には、動揺して周囲を見回す子、声を押し殺すように両手で口を塞ぐ子もいた。
東日本大震災当時、船越小の校舎は今より10メートル低い敷地に立ち、津波は2階まで及んだ。児童や教職員は高台に逃れて無事だったが、校区内では家屋の4割が損壊した。
宮下さんは「震災の恐怖の記憶は根深い。普段は忘れていても何かのきっかけでよみがえる」と話す。
震災の翌2012年、臨床心理士の資格を生かし、被災した子どもたちの力になりたいと、大阪府内の中学校教員を辞めて岩手県宮古市に来た。県のスクールカウンセラーとして山田町などの小中学校を巡回する。
子どもたちは当初、震災の話には触れたがらなかったが、休み時間に声をかけたり、一緒にパズルで遊んだりするうち、話をする子も出始めた。
「絵を描くのが好きになった」。震災で父親を亡くした、ある小学校の高学年男児は面談でそう話した。理由を尋ねると、「お父さんが絵が得意だったから」と打ち明けた。父親を亡くした別の高学年の女児は「お父さんをよく思い出す。懐かしいというより、悲しいイメージ」と漏らした。
宮下さんは担任教諭らと協力し、子どもたちに少しずつ震災に触れさせる授業も始めた。
船越小6年のクラスでは昨年末、1995年の阪神大震災後に作られた絵本「かばくんのきもち」の読み聞かせをした。
震災後、無気力になったかばくんが、つらい気持ちを家族や友人に話す大切さを知り、元気を取り戻していく物語だ。地震にかかわる内容に表情をこわばらせる児童もいたが、宮下さんは苦しさに向き合うことで前へ進んでいけると伝えた。
個人面談で一人ずつ心理状況を把握した上で、今月3日の授業では、子ども同士が震災の体験を語り合った。冨山英恵さん(12)は「震災の話は友達ともしなかったけど、これからは逃げないようにしたい」と話した。
「震災を語り始めた子どもたちに寄り添っていけたら」と宮下さん。しばらくは被災地にとどまり、その思いをしっかり受け止めたいと考えている。
山田町 人口約1万6000人。東日本大震災では、沿岸部を中心に全戸の約4割が全半壊した。死者・行方不明者は824人。小学校9校、中学校2校、高校1校がある。船越小は昨年4月、被災3県で校舎が損壊した小中高校では初めて高台に移転した。