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「米朝小米朝親子会」での桂米朝さん=2004年5月、京都府立文化芸術会館
上方落語界の「巨星」が落ちた。漫才や喜劇の人気に押され、風前のともしびだった戦後の上方落語を復興させたのが、後年「四天王」と呼ばれた故笑福亭松鶴(六代目)、桂春団治、故桂文枝(五代目)と桂米朝さんだった。
中でも、学生時代に落語の研究家を志したという米朝さんは「知性派」「学者肌」と評された。入門後は多くの師匠の下に通って、古典を覚え、文章に書き留めた。そこから時代背景や登場人物の性格などを徹底分析、現代に合わない部分はそぎ落とし、今風のくすぐりを加えて演じて見せた。復活した話は「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」など20以上。見事に米朝オリジナルと言ってもいいネタとなった。
大阪では演芸場は漫才や喜劇が中心。そこでホールでの落語会に活路を見いだしたのも米朝さんだった。正統派の柔らかな語り口としっかりした話の構成で、東京など各地の落語会でも多くのファンが聞き入った。
五代目桂米團治の襲名発表会見で笑顔を見せる桂米朝さん(左から2人目)=2007年7月、大阪市北区
米朝一門は孫弟子まで含めると60人を数え、上方落語界の一大勢力になった。ホールでの一門会は人気で若手を鍛える場にもなった。爆笑型の故枝雀、激情型のざこば、タレントに転身した月亭可朝など、端正な米朝さんの芸風とは正反対の異能の落語家が育ったのは、芸に対する厳しさとともに懐の広さがあったからとも言われる。
米朝さんは体力の衰えから、2002年春を最後に大ホールでの独演会を取りやめた。その後も、小ホールでの独演会や大ホールでの一門会では、高座に姿を見せ続けたが、近年は体調を崩すことが多く、表舞台から遠ざかっていた。