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〈国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和〉なら、どちらが弱者にとって望ましいか──2007年、当時31歳のフリーターだった赤木智弘氏は、そう世に問うた。今でも、「戦争を望む」思いに変わりはないという。
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私が社会人になる1994年当時はバブルが崩壊して最初の就職氷河期だった頃で、専門学校生だった私はまともにその煽りを受けた。就職はままならず、フリーターとなって糊口をしのぐうちに30歳になった。周囲は結婚し、ショッピングセンターに出かければ同世代の父親が妻と子どもを連れて歩いていたりする。
なのに私は自分一人の身すら養えない状況に甘んじていた。この「持たざる者」の屈辱は経験した者しかわかるまい。「平和な不平等社会」日本への絶望感から、私はこの時「希望は戦争」と書いたのだ。
2008年のリーマン・ショック以降、「年越し派遣村」が開設されるなど、いわゆるワーキング・プアの境遇に世間の耳目が集まった時期があった。が、2011年に東日本大震災が発生すると、震災で家や仕事、家族を失った人に支援や同情が寄せられる一方で、最初からそれらを持たないホームレスなど経済的弱者への支援は忘れ去られてしまった。3.11後、「持たざる者」に対する世間の冷淡さはむしろ強まったと感じる。
今も「希望は戦争」の思いに基本的な変わりはない。戦争に敗れ、街が廃墟になったところから再出発する時の「平等さ」に賭けたい思いだ。「平和」な今の社会ではお金がある人が有利だが、戦争になれば体力のある若者のほうが有利である。既存の体制が崩れた上に自分たちで新たな社会をつくるとなれば、私にもチャンスがある。
そんなことを夢想してしまうほど、日本の格差は拡大し、かつ固定化している。例えば、「持っている」正社員と「持たざる」非正規の格差は歴然だ。民間給与実態統計調査(2013年、国税庁)によると、正社員の平均年収473万円に対して、非正規のそれは約168万円。実に300万円以上もの開きがある。
その格差は社会保障分野の諸施策ではとても縮まらない。正社員は定期昇給で年々給料が上がるが、バイトなど非正規の時給が上がり続けるなど想像しにくい。キャリアアップを目指そうにも、“補助労働”が主であるため困難だ。起業はさらにハードルが高く、正社員の経験がない者にはリスクが大きすぎる。
そうした現状を、「個人の努力が足りない」と切り捨てるのは簡単だ。…
仕事ができて、若くて、美人――そんな完璧な女性が突然ストーカーに豹変してしまうこともある。会社員の松本恵さん(仮名・34才)の友人、裕子さん(仮名・35才)は大手企業に勤めるキャリア女性。
そんな彼女がつきあっていたのは、10才年下のしがないフリーターだった。見た目はいいがお金はなく正社員を目指すつもりもない、そんな“ダメ男”だった。デート代はいつも彼女が負担し、洋服まで買ってあげる世話焼きぶり。にもかかわらず、彼氏は「他に好きな人ができた」という理由で裕子さんをフった。
「まさか裕子がフラれるとは思わなかった。それでも別れてよかったと思ってたんです。でも、裕子は未練たらたらで、何度もヨリを戻したいと電話したり、家の前で待ち伏せたりしているみたいでした」(松本さん、以下「」内同)
いくら裕子さんが必死になっても彼はまったくヨリを戻す気配はない。すると裕子さんは大胆な行動にでたという。
「彼はお金がないから、築ウン十年の風呂なしアパートの2階に住んでいたんです。なんと、裕子は彼の真下の部屋を借りました。ただ彼氏を監視するための部屋なので家具などはなし。郵便物をチェックしたり、来客がいないか調べたり、夜はただひたすら聞き耳を立てて音を聞いているみたい。
裕子は『彼と元サヤに戻るのはあきらめている』と言いますが、彼に新しい恋人ができるのはイヤみたいで行動を監視したいらしいです。いつまで裕子のそんな日々が続くのか…いっそ彼に新しい彼女ができてくれればいいのに、と思ってしまいます」
※女性セブン2015年4月2日号
今年、没後400年目にあたる徳川家康。関ケ原の合戦で勝利し、太平の世を築いた。「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」とも呼ばれる江戸時代、征夷大将軍は15人。うち3人を演じ、徳川家に詳しい西田敏行さんがその魅力を語った。
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「功名(こうみょう)が辻」(2006年)で家康をやってくれませんかという話がきました。ほんと素直に嬉しかったですよ。念願かなって、ようやっと自分の家康が演じられるんだなという感じです。僕は、決まった役のために資料をあさって勉強するっていうことはまずしません。台本に書かれていることに自分のささやかな歴史の知識を加えて人物をイメージしていきます。
このときはまず、教科書に出てくる家康の肖像画に見た目を近づけたいと思った。家康の耳は福耳で大きい。特殊メイクに頼んで、付け耳をしてもらいました。
それに声。自分の出せる範囲でですけど、どういう声が一番あっているか想像します。ハイトーンなのか、低めで抑揚(よくよう)がないのか。家康は抑揚のないほう。つややかな非常に良い声だったんじゃないかな。
好みの女性や、女性と会ったとき、まずどこを見るだろうというのも考えます。家康は、まずお尻を見たでしょう。やっぱり、子孫を増やそうという気持ちがどこかにあるだろうから、良い子を産めるかどうかの判断材料として、まずはお尻をね。まあ自分がお尻好きだからかもしれないですけど(笑)。
健啖家(けんたんか)だったということで、やっぱりちょっと太っているイメージは持っていました。死因は諸説ありますが、内臓の病気による死だろうな、ということも頭に入れておきました。
あとは、みなさんご存じの家康ですよ、という部分はちゃんとキープして、そこから自分のオリジナルな家康を引っぱり出していく、という感じですかね。史実のみに縛られてしまうと表現が狭まってしまう。それはやってないんじゃないの、って歴史家に言われそうなこともやりました。
例えば、よく寝転がっていた。殿様は上座に座ってじっとしているという時代劇のお決まりではなく、ゴロンと横になったり、指圧を受けたりしました。
相談したディレクターには、「この大事な話をするときにですか」と言われました。でも、歴史的には大事な話になったかもしれないけど、そのときは普通に聞いてしまうことだってありえるでしょう。気を抜いているときに大事な報告が入ってもいいじゃないですか。…
地下鉄サリン事件発生から20年。東京拘置所に収監されている教祖・麻原彰晃(松本智津夫・死刑囚)だが、この4~5年、三女・アーチャリーも含め誰も面会できていないという。
現在の麻原の情報が秘匿される一方で、「死刑執行のXデー」は着実に迫りつつある。一部の法務省関係者からは「今年の5月16日執行説」まで飛び出した。
1995年、地下鉄サリン事件をオウムによる無差別テロと断定した警視庁は山梨県上九一色村の教団施設に度重なる強制捜査をかけ、5月16日に麻原を逮捕した。その節目に死刑執行の可能性があるとの情報だ。
オウム事件では逃亡犯の存在が麻原の死刑執行を難しくしていた。
民主党政権時代の2012年6~10月に法務大臣を務め、在任中に4人の死刑執行命令書にサインした滝実(たき・まこと)氏は、「私が法相を務めていた頃は、一連のオウム事件で逮捕できていなかった逃亡犯がいたために麻原の死刑を検討する段階になかった」と語る。
しかし、2011年12月31日に約17年間逃亡していた平田信が警察に出頭、翌年には菊地直子と高橋克也が相次いで逮捕され、特別指名手配されていた容疑者全員が捕まった。これで潮目が変わったと法務省関係者はいう。
「3人は公判中だが、いずれも麻原の証言は必要ないとされている。最も進行が遅い高橋の一審も4月に結審する見通しだ。共犯者の刑がすべて確定するまで死刑を執行しないのが原則だが、それはあくまで慣習で、すでに麻原から新たな証言を得ることは絶望的だ。法務大臣の署名があれば、死刑執行はすぐにでもできる」
現政権の思惑が執行を後押しするとの見方もある。大手紙政治部記者がいう。
「閣僚スキャンダルやアベノミクスの低迷で、政権の求心力低下は時間の問題。徐々に支持率が低下していく危機感が官邸内にある。だが、麻原の死刑を断行すれば“決断する内閣”という印象を国民に与えられる。上川陽子・法相はオウムの監視を目的とする団体規制法を存続させるなど、対決姿勢を鮮明にしている。決断する可能性は十分にある」
それでも刑事訴訟法479条の問題が残る。「死刑判決を受けた者が心神喪失の状態にある時は執行を停止する」としている。拘置所や裁判所で意味不明な発言を繰り返し、面会者の前で自らの性器をいじるなどの「奇異行動」が目立っただけに、死刑執行の判断は慎重にならざるを得ない。
前出の滝氏は「本当に心神喪失の状態にあるか否かは最終的には法務省が判断することになる」と語る。麻原の命は安倍首相の意向と法相、法務官僚の手に委ねられている。
(文中の死刑囚、受刑者、被告等の表記は略)
※週刊ポスト2015年4月3日号
東日本大震災の津波と火災で校舎が焼失し、仮校舎で授業を続けていた宮城県石巻市立門脇(かどのわき)小学校の閉校式が22日、仮校舎のある門脇中で開かれた。学区の大半が被災し児童数が激減、4月から近くの石巻小に統合される。児童、卒業生ら約600人が142年の伝統を持つ母校に別れを告げた。
式では、6年の尾形凌太さん(12)が「震災でつらい経験をしたが、環境が変わっても毎日楽しかった。この学校で過ごしたことを決して忘れない」と別れの言葉。出席者全員で「手を取って進もうよ/小学校は門脇」と校歌を歌った。
門脇小は1873(明治6)年創立。海から約800メートルの場所にあり、津波で浸水後、流れ着いたがれきが発火し校舎が焼失した。学校にいた児童は高台に避難し無事だったが、下校した7人が犠牲となった。学区の大半が居住できない災害危険区域となり、児童数も震災前の3分の1の109人に。それでも約6割は学区外の仮設住宅などから仮校舎に通い続けた。被災校舎は、市が震災遺構として保存するか検討中。
卒業生の吉田恵美さん(40)は娘が同小3年生。被災校舎近くの自宅が被災した。「戻りたいけど戻れないだけに、震災を理由に母校が消えるのは心が痛い。娘は自分から入学を希望し、この3年で気持ちが強くなった。門脇小の子たちに、私も元気づけられた4年だった」と話した。【百武信幸】