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【シンガポール時事】30年余りにわたってシンガポール首相を務め、小さな都市国家を東南アジア随一の先進国に育て上げたリー・クアンユー氏が23日未明、入院先の病院で死去した。91歳だった。
首相府は「シンガポール初代首相リー・クアンユー氏の逝去を深い悲しみをもってお伝えする。リー氏は午前3時18分(日本時間同4時18分)、シンガポール総合病院で安らかに亡くなった」と発表した。
2月5日に重い肺炎で入院。集中治療室(ICU)で人工呼吸器を装着し、抗生物質の投与を受けていたが、最近になって危篤状態に陥っていた。
日米欧からの外資導入を推進。マレー半島先端の小島にすぎなかったシンガポールを「世界の貿易港」「アジアの金融センター」に変貌させて繁栄の礎を築き、「シンガポール建国の父」と呼ばれた。
1923年、当時の英植民地シンガポールで華人(中国系)家庭に生まれた。第2次大戦中、シンガポールを占領した日本軍の報道部に約1年勤務。終戦とともに渡英し、ケンブリッジ大(法学)を首席で卒業した。帰郷後は弁護士として活動。54年に留学経験者の仲間を中核として、後に与党となる人民行動党(PAP)を結党し、書記長に選ばれた。
英連邦シンガポール自治州の総選挙で59年にPAPが勝利すると、35歳で自治州首相に。63年、シンガポールのマレーシア連邦加入に伴い州政府首相となり、65年8月、マレーシアからの分離・独立で成立したシンガポール共和国の初代首相に就任。90年11月にゴー・チョクトン第1副首相(当時)に首相の座を禅譲するまで、長期間にわたり近代的な都市国家建設と工業化を進めた。
【バンコク岩佐淳士】シンガポール「建国の父」と呼ばれたリー・クアンユー元首相が23日、死去した。91歳だった。2月5日から重い肺炎で入院していた。首相府が発表した。1965年にマレーシアから分離独立後、初代首相を務め、資源小国のシンガポールを東南アジア随一の経済先進国に発展させた。70年代末から「日本に学べ」運動を展開し企業経営方法などの吸収にも努めた。90年の首相辞任後も影響力を保持。事実上の一党独裁体制による国家運営の手法は「開発独裁」の典型ともされた。
2004年に第3代首相に就任したリー・シェンロン氏は長男。「世襲」には批判の声もあった。
2015年3月20日、参考消息網は記事「東南アジアに向かう海外の投資、中国への脅威とはならず」を掲載した。
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中国の労働コストが上昇するなか、外資系製造業の東南アジア移転が注目されている。海外直接投資の受入額では2年連続で、東南アジアが中国を上回った。今後この動きがさらに加速するのか注目を集めているが、想像されているほどのインパクトはないと19日付英紙フィナンシャル・タイムズ電子版が論評している。
東南アジアの国々もそれぞれ性格が異なるが、製造業分野で潜在力を持つのはベトナムとカンボジアだ。中国と比べるといまだに最低賃金が安く、中国の半分程度しかない。しかし投資ブームが続くなか、実質的な賃金水準は急上昇を続けている。また政治的なリスクも大きい。昨年は南シナ海をめぐる紛争を受け、ベトナムで過激なデモが発生。工業地域の打ち壊しに発展した。カンボジアでもアパレル業界の賃上げデモが起きているが、反首相色の強い政治的な様相を呈すなど不透明さを増している。(翻訳・編集/増田聡太郎)
チュニジアの博物館で起きたテロを受け、日本政府が派遣した外務省の中根一幸政務官が、日本時間の22日午後10時ごろ、チュニジアの空港に到着しました。
「卑劣なテロは決して許されるものではありません。憤りを感じずにはいられません」(外務省 中根一幸政務官)
中根政務官はこの後、事件現場となった博物館を訪れ、献花を行うほか、チュニジアの政府要人と面会し、チュニジアに滞在する日本人の安全確保を改めて要請することにしています。
一方、今回のテロ事件について、カイドセブシ大統領は、テロの実行犯は3人いて、2人は現場で射殺されたものの、3人目の男が現在も逃走中であることを明らかにしました。この3人目の男について、カイドセブシ大統領は「博物館の監視カメラ映像に映っていた」としています。(23日00:12)
【シンガポール共同】シンガポール首相府によると、「シンガポール建国の父」として知られるリー・クアンユー元首相が23日、死去した。91歳だった。2月5日から肺炎のため入院していた。
シンガポールが英連邦自治州になった1959年に自治州首相に就任して以来、31年にわたり政権を担当。外資導入による工業化を進めるとともに徹底した能力主義を推進。アジアで最も豊かな国の一つとなったシンガポール繁栄の基礎を築いた。リー・シェンロン現首相は長男。
冷戦下で反共親米の外交路線を取りながら、民主主義や人権のような価値観よりも「社会の安定」や「経済成長」を重視した。