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浜田、江津市のしまね海洋館アクアスが、近海を再現した大型水槽による新たな展示「石見万葉の磯」を公開した。コブダイやスズキ、クエ、カワハギなど20種を展示する。将来的には45種約340匹に増やすという。
これまでの展示「しまねの磯」を原型とし、江津市の大崎鼻灯台に近い辛の崎をイメージして改装した。辛の崎は石見国に役人として赴任した万葉歌人・柿本人麻呂が訪れたとされ、水槽には海側から眺めた磯を忠実に再現した。さらに灯台の模型を据え、噴流装置で渦巻く波を表現している。
館内では、昨春に山口県沖の日本海で捕獲された雄のダイオウイカの標本の常設展示も始めた。2本の長い触腕を含めた体長は5・71メートルで、横向けに並べて大きさを実感できる。
同館前広場では28、29両日、海産物の露店が並ぶ「春祭り」が開かれる。問い合わせはアクアス(0855・28・3900)へ。
(石田仁史)
両手をパタパタさせ、静かにポーズを決める。何ともゆる~い動作に客席がどっと沸いた。
今月8日、彦根城(滋賀県彦根市)の表門前。約300人の観衆に愛嬌(あいきょう)をふりまいたのは、城のキャラクター、ひこにゃんだ。9年前にデビューして大ブレイクした「ゆるキャラ」の元祖。衰え知らずの人気が後押しし、年平均の入城者数はデビュー以前の1・5倍を維持する。
家族3人で訪れた岐阜市の男性会社員(34)は、「子供連れで来やすくなり、城の楽しみ方が変わった」と声を弾ませた。
「お城ブーム」が続いている。全国城郭管理者協議会(事務局=沖縄・首里城)によると、加盟49城郭の入城者数は2013年度、1832万人で過去最高を更新した。
今月27日には天守の修復を終えた世界遺産・姫路城がグランドオープンし、名古屋城では本丸御殿の復元工事が続くなど、今後も話題には事欠かない。お笑いタレント「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳さん、落語家の春風亭昇太さんら、自身のブログなどで「城好き」を公言する芸能人も珍しくなくなった。
2年前から城をテーマにトークや城歩きのイベントを東京、大阪で開いてきた「城郭ライター」の萩原さちこさん(38)は、ファン層の拡大を実感する一人だ。「歴女(歴史好きの女性)やプチ旅行の広がりとともに、城のイメージが変わりつつある。建築美、土地の歴史、城下町の食と、テーマパークのように楽しめるお城はもう、『オジサンの聖地』じゃない」
◇安土城念頭に
各地で観光客を集める近世城郭の「定型モデル」は、豊臣秀吉の大坂城とされる。
「大さか(大坂)をうけとり候て(中略)五十ねん(年)もくにくに(国々)しつ(鎮)まり候ようニ申つけ候」。本能寺の変で主君の織田信長を失った翌年(1583年)、秀吉は盟友・前田利家の娘に宛てた書簡で、大坂城を拠点に天下統一を果たす決意を示し、築城を開始した。
念頭には信長の安土城があった。大型で華美な天守と高い石垣を備えた安土城は、城の役割を「戦時の砦」から「権力のシンボルタワー」へと変容させた。山城だった安土に対し、平地に造られた大坂城は、その色彩をより強めたと言われる。
織田・豊臣期の城郭に詳しい滋賀県立大教授の中井均さん(59)が秀吉の意図を読み解くカギとして挙げるのは、安土城、大坂城の両方で使われた金箔(きんぱく)瓦だ。
秀吉政権下で造られ、金箔瓦が見つかった城は全国20か所以上。豊臣一族とそれに準じる有力武将の城に加え、関東を支配した徳川家康の領地周辺、朝鮮出兵時に通過する街道沿いの城にも使われた。黄金の城は権力を民衆に誇示し、仮想敵を威嚇し、兵士を鼓舞する役割をも担ったのだという。
中井さんは「いわば秀吉政権の直営店、フランチャイズ店の目印が金箔瓦。秀吉は大坂城をモデルに天守と石垣を備えた定型の城を各地に造らせ、政権の地域拠点にしていった」とみる。
やがて金箔使用はなくなるものの、城を政治と軍事の拠点と位置づけ、建築と破却を統制する手法は、江戸幕府が「一国一城令」で踏襲。城下町は現代の都市へとつながっていく。
◇天下統一の拠点
<太閤が築いた城か 地下10メートルにナゾの石垣>
徳川政権が地下深くに埋め隠した石垣の存在を、読売新聞が初めて報じたのは1959年5月。徳川の大坂城も現天守閣も「土台は太閤さんの城」という、当時の常識を覆す発見だった。
3年後に学芸員として採用された元大阪城天守閣館長の渡辺武(たける)さん(77)(兵庫県西宮市)は付近のボーリング調査を繰り返し、「秀吉時代の石垣」だと確信した。だが、太閤びいきの大阪人は長い間、今の石垣が徳川時代のものと認めたがらなかったという。だからこそ、目に見える形で後世に伝え残すことが「長年の念願だった」とも語る。
その結実が、大坂の陣400年に合わせてスタートした石垣発掘・公開プロジェクト。15年度も秀吉大坂城の全容を探る調査を続け、将来的には地下に眠る石垣の常設展示施設を整備する計画だ。
自らの生涯を露に例え、「なにわの事も ゆめの又ゆめ」と詠んだ秀吉にとって大阪は天下統一の拠点。成功と栄華の象徴だった大坂城には歴史のロマンが宿る。
時代とありようは変わっても、城の存在は日本人の心にしっかりと息づいてきた。「秀吉時代の石垣」が長い眠りを覚ます時もきっと、新たな夢を見せてくれるに違いない。
(稲垣収一)
◇屏風画で知る威容
秀吉が造った大坂城の威容は、現存する5点の屏風(びょうぶ)画からうかがい知ることができる。
制作時期から実像に近い姿を描いたと考えられるのが、大阪城天守閣所蔵の「大坂城図屏風」と「大坂夏の陣図屏風」。黒塗りの天守外壁には黒漆、壁や瓦には金箔が使われたとみられる。
ただ、「夏の陣図」で天守外壁に描かれた虎やサギは現在の天守閣建設時にモデルとされたが、制作年代の古い「大坂城図」には見られない。天守が損傷したと伝わる1596年の伏見地震の後、改修されて加わった可能性もある。
残る3点は後年の作か、着色されていない下絵で、細部に違いが見られるが、最上階に展望用の回廊を備えた5層の建物という点では共通している。
「なにわの夢」は今回で終わります。
「レーシック」を受けてから3年以上がたちます。レーシックとはレーザーを用いた「視力回復手術」で、近視だった私が受けたのは、自身の目の形に極力、合わせて手術を行う「カスタム・レーシック」と呼ばれるものでした。
実のところ、私は先の尖(とが)ったものが苦手で、とても恐がりです。注射や点滴、手術という言葉自体に恐怖感を持っており、こうして言葉を綴(つづ)っているだけで体がムズムズします。
そんな自分がよく手術を決断したと思いますし、友人たちからは「ええっ!?」とひどく驚かれました。それはたぶん、あのタイミングだったから。
レーシックを受ける前、辛(つら)いこと、心が冷えるような出来事がこれでもかこれでもかというくらいに重なり、「やけになっていた」という状況でした。もちろんそれだけが理由ではありません。以前から考えていたことで、レーシックを受けた方から話を伺ったり、眼科医に相談もしていました。
けれど、決められたのはあのタイミングだったから。あれを逃したら今も迷ったままだったかもしれません。
今現在、手術を受けたことによる問題は感じていません。メガネやコンタクトレンズを必要としない日々を快適にすごしています。
手術後は、それまでより目をいたわるようになりました。「便利さ」を求めて心身にかけた負荷を無駄にしたくないですから。
具体的には、パソコンに向かうときはブルーライトを軽減するメガネをかける、日差しの強い季節や照り返しの強い場所ではサングラスを使う、遠くを見るようにする、目に好影響の食物を意識的に摂(と)る…、などなどです。
先のことは分かりませんが、現時点ではレーシックを受けて良かったと思っています。「やけになるのは絶対にだめ」という教訓も含めて。決断と結果。それは状況がどうなろうと自分の責任で、事の大小によらず自らがずっと抱えていくもの。ですから、やけになっては絶対にいけないと心に言い聞かせています。
【矢野直美】 国内外を旅しつつ写真を撮り、文章をつづる「フォトライター」。鉄道の旅をこよなく愛する「鉄子」の先駆者としても知られ、著書多数。札幌市在住。
本州から来た大切な人を寿司(すし)屋でもてなしたい時、困るのは日曜日に休む店が多いこと。そんな時に覚えておきたいのが、知る人ぞ知る「鮨一(すしかず)」。中心街から離れた北区にありながら、日曜も昼・夜ともに営業し、ネタの良さに定評がある。
店主の内田一行さん(53)は、旭川出身。寿司屋を営む親せきが6人もいた環境のせいか、高校卒業後、迷わず寿司職人の道へ進む。老舗の「東寿し」「すし善」で修業を重ね、独立したのは、1990年のこと。今の店のはす向かいにあった空き店舗で店をスタートして15年、現在地へ移転して8年になる。
店内に足を踏み入れるとまず目に入るのが、珍しい勾配のつけられた白木(ヒノキ)のカウンター。その上に浅く見えるネタケースが埋め込まれ、その底には厚さ30センチもある氷が敷かれている。ケースの中には、鮮度抜群のボタンエビやホタテなど、海の幸がふんだんに並べられ、眺めているだけで生つばがゴクリ。
なかでも内田さん自慢のネタは、塩もしくは甘ダレで味わう穴子。シンプルな塩で食べてみると、穴子そのものの旨(うま)みがじんわりと口中に広がり、味わい深さを堪能できる。今の時期は東京湾でとれたものを使うが、季節によって噴火湾など産地は変わり、旬のものを通年楽しめるそうだ。
もうひとつ見逃せないネタが、毎年、大間と戸井から一本買いする本マグロ。寿司屋の定番とはいえ、赤身はもとより大トロまで、常に一定レベルのマグロを味わえるのがうれしい。
毎朝、市場に通って食材を求める内田さんは「おいしい食材を見つけ、おいしい寿司を握り、お客さんに『おいしい』と言ってもらえるのが最高の喜びです」と、顔をほころばせる。
カウンターは15席あって、予約制となっている。内田さんと並んで、若き寿司職人の船渡寛一さん(36)も握り、親方譲りの腕を発揮してくれるので安心だ。
仲間同士や家族連れは小上がりが居心地よさそうだが、飲んべえにはカウンターをおすすめしたい。というのも、積丹町の漁師に仕込んでもらう絶品の塩ウニをはじめ、子持ちシャコやナマコ酢など、季節に合わせた多彩なツマミが登場するから。
遠くても行きたい「そば屋」があるとしたら、さしずめここは遠くても行きたい「寿司屋」と言えるだろう。(文・和田由美 写真・藤倉孝幸)
【住 所】 札幌市北区北24西19の4の14 (電)011・728・5350
【営業時間】 午前11時30分~午後2時、午後5時~午後10時。月曜休
【主なメニュー】 穴子1貫500円、マグロ赤身1貫500円、塩ウニ500円、小上がり席=握り2500円~、カウンター席=旬のおまかせ握り12貫5000円、おまかせ8000円~、生ビール小(ザ・プレミアムモルツ)500円、日本酒(大関)400円 ※税別
※メニュー、価格などは変更されている場合があります。
◇設置3年、境港に16体
妖怪と並ぶ観光資源・魚介類のオブジェが、境港市の境水道沿いの海岸付近に並ぶ「おさかなロード」が24日、設置を始めて丸3年を迎える。スポンサーを募って増やし、現在は16体に。観光客にも徐々に知られるようになり、企画した地元のNPO法人「元気みなと」は「水木しげるロードに続く名所に」と、50体を目指す。(立山光一郎)
妖怪のブロンズ像が並ぶ水木ロードが年間200万人以上の観光客でにぎわう一方、隣接する旧銀座商店街や、海岸沿いの通りは寂れていた。そのため、港町のにぎわいを取り戻そうと、街おこしに取り組む同NPOのメンバーらが始めた。
水木ロードの東端から、境台場公園までの約1・2キロ。道路沿いの商店や事業所などの前に、実物から型を取った鋳物の魚介類を、石の台座に据えて設置している。
第1号となるトビウオのオブジェが、西の起点近くに置かれたのが2012年3月24日。その後、松葉ガニやキジハタ、スルメイカ、アカエイなど種類は増え、今年1月には16体目となるヤリイカが設置された。同市内の商店や漁業関連業者、同市出身者などが、スポンサーとして協力している。
市観光協会が14年度版観光パンフで紹介するなどし、水木ロード目当ての観光客らも訪れるように。昨年6月の平日に通行者数を調べたところ183人で、観光客も目立つようになった。さらに、地元の小学生らが案内看板作りに取り組むなど、魚をテーマにした街おこしの機運も高まる。
21、22日にはロードで、海の幸を楽しむ「第1回境港おさかなロード大漁祭」(元気みなと商店街主催)が開催。地元海産物の加工品や料理などの人気を競う「Sea級グルメコンテスト」や、オブジェを巡るスタンプラリーなどが行われる。同NPOの吉田明広理事長(46)は「ロードが呼び水となって飲食店が出店し、観光スポットとして定着するよう、オブジェをどんどん増やしたい」と話す。
◇実物から型、リアル追求 制作・森下明時さん
「おさかなロード」のオブジェは、米子市博労町で、スズ鋳物クラフトを手がける森下明時(みつよし)さん(61)が制作。本物の魚介類から鋳型をとり、着色する独自の技法で作る。金属独特の重量感があり、ロードで抜群の存在感を示している。
下水管などを製造する鋳物工場に勤め、技術を習得。釣りが好きで、30歳代の頃から魚の鋳物を作っていた。中断した時期もあったが、50歳頃から活動を再開した。
転職先を退職後の2010年、自宅に工房を開設し、日常雑器なども製作。米子工芸会員で、京都市内のギャラリーで個展を開くなどしていた。作品が「元気みなと」のメンバーの目にとまり、オブジェの制作を依頼されるようになった。
魚らしい質感を出そうと、うろこの1枚1枚も鋳造で表現。塗料には、車にも使われる高級品を採用する。風雨や日光にさらされる厳しい環境にも強い、耐久性が特長だ。森下さんは「ロードに置くことで、多くの人に見てもらえるので作りがいがある」と話す。